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大日本帝国6



476 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/12/21 21:20:47 ID:???
時は明治2年 政府の鉄道建設計画が根本から揺らぎかける事件がおきた
なんと慶応3年、江戸幕府がアメリカに鉄道建設免状を出していた事が発覚
アメリカ公使館がその免状を楯に、鉄道建設をさせるよう求めてきた

「そんなことを許可したら植民地同様になってしまう」と大隈重信が突っぱねた所
翌日公使が抗議状を持って政府に乗り込んできた
そこで仔細に免状を調査したところ、署名が将軍慶喜ではなく老中小笠原壱岐守であり
大政奉還直後の12月23日発行だった つまり無資格の老中が勝手に発行したものだった

それを理由に再度突っぱねたが、公使は納得せず
一時は戦争も辞さない構えだったという
923 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/12/27 00:16:18 ID:???
昭和8年から昭和12年にかけて発行された10銭と5銭硬貨は以前の白銅に代わり
ニッケルを主原料として製作された。

耐腐食性、対摩耗性に優れたニッケルは白銅と比べ偽造がしにくく
これらの点が評価され採用されたがもう一つ目的があった、
兵器類に必要な特殊鋼の材料として不可欠であり国内でほぼ産出しない
ニッケルを白銅よりも高い純度で流通貨幣という形で備蓄しようというものであった。

昭和12年に日中戦争が勃発し昭和13年に臨時通貨法が制定されると
代行貨幣が作られこれらのニッケル貨幣は実際に回収されている。
930 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/12/27 01:02:54 ID:???
終戦後すぐ作られた50銭黄銅貨は旧軍の銃砲弾の薬莢等から作られているため、品位が一定でない。(銅600〜700、亜鉛400〜300とアバウト)
そのため良く割れる。

昭和10年代からの低額硬貨の材質や量目を見ると、いかに日本が疲弊していったかよくわかる。
5銭アルミ貨等は2度も量目変更をしている。
最後にはセラミックの貨幣を作ったんだから・・・
942 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/12/27 14:51:56 ID:???
>>930
>昭和10年代からの低額硬貨の材質や量目を見ると、いかに日本が疲弊していったかよくわかる。
>5銭アルミ貨等は2度も量目変更をしている。
>最後にはセラミックの貨幣を作ったんだから・・・

昭和13年以降1・5・10銭は錫を代用でアルミを用いたアルミニウム青銅に切り替えられた
しかしすぐさま銅も重要物資になり結局軽く加工も容易なアルミニウム100%の
1・5・10銭が登場することになった。

そして太平洋戦争開戦、既に主力は全金属の航空機時代に突入していた、
アルミニウムはいくらあっても足りない、そこではたと気がついた。
「なんでアルミが足りないのに硬貨でアルミニウムを消費してるんだろ?」

ただでさえ減る金属割り当てに対しインフレで小額貨幣の需要は増加しているため
貨幣切り替えの転機になった昭和13年制定の臨時通貨法(議会の議決や承認なしに
勅令により貨幣の素材・純度を変更できる)によりこれらの貨幣はダイエットを開始した。

昭和15年から昭和18年の間に
10銭は直径22.00mm・1.50gから直径22.00mm・1.00gに
5銭は直径19.00mm・1.20gから直径19.00mm・0.80gに
1銭は直径17.50mm・0.90gからデザイン変更を挟んで直径16.00mm・0.55gになり
薄く小さくなっていったがそのアルミも払底。
占領地の東南アジアから産出する錫と亜鉛の合金貨幣の生産が昭和19年から
開始されたが南方からの輸送が途絶えがちになるとこれらもすぐさま製造中止、
5・10銭は小額日銀券へと切り替えられた。

しかしこの時期になると紙もインクも重要物資、耐久性も硬貨タイプの方が勝るため
なんと陶器(磁器)で貨幣を作ろうとした。
陶貨は国外では前例があり別段日本が初めてではないが製造ノウハウは手探りで
有田、瀬戸、京都などに製造が打診されプレス機もないのでボタンを作る要領で
10銭・5銭・1銭の各陶貨が作られたが本格的に出回る前に戦争が終結、
陶貨は日の目を見ることなく死蔵あるいは廃棄された。
977 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:04/12/28 19:49:24 ID:???
1951年12月27日、Chicagoの「婦人の声」という小新聞に掲載された社説。

「真珠湾攻撃時に、日本軍(とされる)の航空機に乗って、米軍を攻撃したのは、
すべて米国人とか英国人と言った白人で、日本人の乗った飛行機もあったが、
それはただ写真を撮っていただけだった。
射撃は専ら白人が行ったのだ
その話は事実であり、三人の兵士が確認している。

だから、真珠湾攻撃は、まさにルーズベルトの自作自演なのである」

…これでも、信じられないが本当なのだが、当時の日本にこの説が紹介された。
…で、この荒唐無稽な説をそのまま信じ込んだ日本人も少なからずいたらしい。
…信じられないが本当だ。
90 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:04/12/30 15:10:07 ID:???
戦後、日本を占領したアメリカ軍を震え上がらせたのは生野菜に付く寄生虫。
我が国で不作のたびに娘を売っぱらい、たい肥で(止む無く)有機栽培をしていた頃
彼の国ではすでに農薬と化学肥料をドバドバつかった「衛生的な」野菜が主流だったため。
もっとも現在ではそれらの野菜の評価は逆転しているが。

信じられないが、本当だ
245 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:05/01/01 16:41:26 ID:???
第二次大戦中の日本軍
ほぼ全ての物資が不足して居た中で、なぜかコンドームだけは豊富に存在した

従軍カメラマンが湿気からフィルムを守るのに重宝したと伝えられる
250 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:05/01/01 17:17:00 ID:???
>>245
当時の日本で、ずば抜けて機械化が進んでいたのがコンドーム生産
戦略物資は学生が汗だくで作ってたのにほぼ完全に自動化されてたとか・・・・
全軍に配備された突撃一番は前線の兵士達を感染病から救いましたとさ
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